プロフィール

運営者のmosachicken【モサチキン】と申します

年齢:39歳

職業:北海道で農業経営

祖父が初代であり、僕が3代目

3児の父です

長男11歳→長女次女が双子9歳

農業歴12年目。

農業で2020年より法人成りしました

法人也後2期目の農業法人です

経営主としては6年生です

好きなもの・こと↓

お金の勉強・ガジェット・旅行・分析・音楽・読書・新しい挑戦・買い物・嫁のカレー・ツッコミ厳しい人・おやつ・長電話・深酒

嫌いなもの・こと↓

質の悪い愚痴・キュウリ・行動していないのに結果でマウント取ってドヤる人・甲殻類・ドリームキラー

それでは掘り下げてみましょう。

ブログを始めたきっかけ・目標

目標

ブログで発信したい内容:農業経営のすばらしさ。

農業を通じて自分は成長できました。

農業のすばらしさ、大変さ、サボれるポイント←特にこの部分(笑)

を発信し、一人でも農業の魅力を知っていただき、新たな担い手仲間が増えればと思っています^ ^

農業の内容はマニアックな内容まで深堀する予定です。

最近は分析、利益率にハマっています。

かけた時間に対してどれだけ利益が出るか?

ということを最近はずっと考えています。

目標はかけた時間を少なくし、単価の高い仕事をすること。

そんなヒントになるような記事も書いていきたい。

究極の目標は1年間の農業の合計作業時間を1ヶ月以内ににする事ですね。

そして11ヶ月を好きなことだけをやって暮らしてみたいです。

ブログ活動は結構好きです。

ここで僕の過去の話をさせて下さい。

このように思うようになったのは5年前の大事故がきっかけです。

首の骨が折れる重傷でした。

この頃の僕は働きすぎて疲れきっており、日々ふらふらの状態でした。

それが事故の原因だと思っています。僕の不注意でしたし。

現在は五体満足で通常の生活を送っております。

この幸運に感謝をして、必要以上に働くこと、気合と根性で乗り切るような働き方をしないようにしようと決意しました。

その点は皆さんに共有したい。

僕の発信を通じて利益率をしっかり把握し、読んで下さった皆さんが農業で必要以上に働きすぎなくても良いと認識していただけるような記事を書いていきたいと思います。

モサチキンの生い立ち

チキン

真面目な話はそれくらいにして僕の黒歴史について言及したいと思います。

長文になりますので、15分ほどかかります。

時間がある方のみお読み下さい。

学生時代のヒヨッコモサチキン

末っ子長男(姉二人)の甘えん坊将軍。

小学生の時はとにかく目立ちたがり屋。

クラスに1人はいるめっちゃうるさい奴

とにかく喋るのが大好きで思いついたことをそのままよく喋っていた。

小学生の絶頂期は4年生の時…

クレ◯ンしんちゃんが流行り出した頃で生のお尻を出して集合写真に写るという変態でした。

集合写真に一人だけお尻が出た状態で写って出来上がった時に先生にしこたま怒られました。

そしてなぜか緑色のマジックでお尻を塗られて逆に恥ずかしくなった事を今でも覚えています。

そのあとスキー場のガラスを投げた石で割るという悪事を働きました。

その後の帰り道に人生初の交通事故に遭いました。

神は見ていると子供ながらに考えたことを今でも覚えています。

救急車デビューです。救命救急員の友人の親に励まされたのは嬉しかった。

トラックと自転車のバトルでしたが、幸い打撲のみで済みました。

そんなこんなで小学校は卒業し、中学校に突入です。

中学校でのモサチキンは1年生の時は相変わらずやかましかった。

当時のあだ名は“仙人”

山の上に住んでいるからという理由からでした。

すんげえ田舎ってことです。

しかし、やかましい僕は2年生になると思春期でとにかく大人しくなった。

理由は担任の先生が合わなかった。

しかし、謎に先輩に告白され試しに付き合うも納得できず1週間で別れる。

自分は追いかけたいタイプなんだとしっかり認識。

そして中学校卒業の時までに合計3人に告白しふられました笑

悲しかったのは良い思い出。

卒業前はとにかく遊びたかった。

カッコつけたかった。

成長期に突入し、入学時145cmだった身長は中学3年生の卒業の頃には178cmになっていました。

鼻の下を伸ばし始めている頃に顔の長さも伸びたのは言うまでもありません。面長族と言った所でしょうか。

スノーボードブームが来ていてとにかくスキー場にいました。

初めて髪を染めたのもこの頃。

ブリーチでしたがビビってあまり時間を置かず、全然染まらなくて腹立ったのをよく覚えています。

受験勉強はしたくなかったので推薦で農業高校に進学。

跡を継ぐと言えば受かる高校でした。

当時は農業を継ぐという選択は全くなかった。

そして静かに卒業を迎えます。

高校生以降のカチった(イキった)モサチキ

高校時代の最初の1年間は寮生活でした。

門限が17時という地獄のような日々。

勉強時間が1時間あり、その時間は部屋から出れません。

携帯電話も禁止。

1ヶ月に一度朝5時の牛舎での搾乳実習が1週間当番で作業。本当に嫌でした笑

21時に就寝時間。

ギラギラした16歳の僕たちには過酷でしたが、ずっと友人と一緒にいられるから楽しかった。

ただ、土日は自宅に帰れたので土日はモ◯バーガーでアルバイトをしていました。

生まれて初めてのアルバイト面接はガチガチに緊張しました。

誰にも聞かずに書いた履歴書の志望動機に「お金が欲しいから」と書いて店長に笑われたのは良い思い出。

けど、女性のアルバイトしかいなかったので当時の僕にとっては天国…笑

そんなこんなで高校デビューを見事果たしたモサチキン。

そして1年間の寮生活を終え解放感に満ち溢れる。

髪にパーマをかけて短ランを着こなし赤いママチャリに乗ってカッコつけていました。

その頃に一部でついたあだ名がモサチキン(現在のモサチキンに至る)

由来はチキン野郎のくせに髪がモサモサしていたから。

バイトはパーマをあてた時点でクビになりました。(そりゃそうだ)

そしてその勢いでピアスもあける。

あけた穴を広げるのが流行っていて、痛い思いをしながら徐々に広げていきました。

ストローを入れて先生に回収されてもオッケーな状態をキープしていました。

ピアスの穴の大きさが器の大きさ的な意味不明な解釈を持ってみんなで競っていました。

そのお陰もあってか付けていない期間が15年くらいになりますが、跡は現在も残っています。

部活は帰宅部。

いっつも下宿に溜まっていました。

中学校の時の同級生に女の子を紹介してくれと常に紹介してもらっていました。

この頃は何も考えず楽しんでいました。

バンドを組む為にベースを弾き始めたのもこの頃。

当時流行っていた曲をたくさんコピーして練習していました。

じーちゃんが趣味で作った離れのカラオケ部屋で爆音でよく練習して指がボロボロになるまで弾いていました。

積み重ねると上達するという事をしっかり認識できたのはその頃でした。

これは今考えると本当に良い教訓でしたね。

ただ、バンドやろうと誘われた友人に裏切られたのはめちゃくちゃショックだった。

大人になってから涙ながらに謝られたので今は気にしていない。

そんなこんなで色々な経験を17歳でこなしていきました。

ちなみに僕は勉強をしたことがありません。

きっと共感できる方がいらっしゃると思いますが、消しゴムがなくなっただけでやる気が無くなる。そして眉毛を整えて勉強時間は終了です。

それでも補習もなく卒業できたのは3年間ものすごく丁寧に勉強を教えてくれた(ずっとカンニングさせてくれた)友人のおかげ。

この場を借りてお礼申し上げます。

高校時代は毎年停学になっていました。

理由は伏せておきます笑

1年に2回停学になると退学に追い込まれる我が母校。

1年から3年までコンスタントに年1回ずつ停学を食いながらなんとか卒業できたのはありがたかった。

そして高校卒業後はすぐ進学せず、近くの通っていたパチンコ屋さんに就職しました。

就職理由は“当時求人の中で給料が一番高かったから”でした。

ですが、パチンコ屋さんといえども接客サービス業。

ここで礼儀等はしっかり学ぶことができました。

丁寧な姿勢で本当に申し訳なさそうな顔つきで謝ることができる技術はその後の接客業にも活かされます。

当時は遅刻王でしたので3ヶ月で研修期間が終了して普通の給料を頂ける予定でしたが、同期の中で僕だけ毎月遅刻するという誰も達成しなかった偉業を成し遂げ、1ヶ月間30分早く出勤して掃除をさせられたのも苦い経験ですが、良い思い出。

この会社での教訓は

①当たり前の事を当たり前と思わず疑問を持って仕事しよう

②分からなくても早く動こう

この2点でした。

元々やりたかった仕事ではないので、そこから1年ですぐ辞めて、都会の専門学校に進学し自動車整備士の資格を取りました。

専門学校時代の大きな出来事は特にありません。

チャラチャラしすぎてチャラり倒していました(何語?)

当時はスノーボードにも相変わらずハマっていて、ジャンプ台で背中から落下⇨落下したところが運悪くアイスバーン。背中を強打。

人生2回目の救急車に乗り込む。

診断の結果、背中の骨を圧迫骨折。

入院するほどではなかったが、しばらく安静にしていた。

その後は丁寧に教えて下さる友人に恵まれ2級整備士の試験に無事合格(この時も全てカンニング

その後整備工場に就職するも3ヶ月で辞めました。

今考えると都会に行きたいだけでした…

専門学校は無駄だったかもしれません。

お父さん、お母さん。高い学費を出してくれたのにごめんなさい。(懺悔かよ)

中型のバイク免許を取り乗っていたのもこの頃。

今思い返すと継続力も全くないダメダメチキンですね。

21歳以降のモサチキン

夜型モサチキン

21歳、ここから夜の生活がスタートします。

やりたいことってなんだろうと考えた結果、とりあえずキラキラした世界に飛び込んでみたい

と考え、バーテンダーになりました。

期間は4年間ですね。

夜の生活はとっても楽しかった。

この時のあだ名はオタコン。

理由はメガネとMacを持っていたから。(そこ?)

毎日17時から翌日朝5時まで12時間働くとってもブラック企業でしたが、毎日毎日営業中も閉店後(朝5時半から)も飲み散らかしとっても狂った生活をしておりました。

遅刻王の僕としては夜の生活はとっても体に馴染んでおりました。(遅刻0)

この時の教訓↓

❶バーテンダーをやるからにはナルシストでいろと先輩に言われて自己肯定感は高まった気がする

❷お酒がすごく弱かった(酎ハイ一杯で顔真っ赤)が、酒が単純に強くなった

❸自分から知らない方に話しかける抵抗がなくなった

ちなみに僕は身長178cmで、この時は一番痩せていて55kgしかありませんでした。

出勤して仕事中もお酒を頂く。ご飯は職場のまかない飯のみ。胃袋はほぼ酒でした。

休日はバンドを組んでライブや練習。

夏の休日はツーリング。

その後100万円の大型バイクを買って7年ローンを組み、カツカツの生活を送っておりました。

レプリカの2輪車に乗って峠に行ってどれだけスピードを出して車体を傾けるかを生きがいにしていました。

タイヤの外側をたくさん減らすことが生きがい。真ん中が減ってたらダサいという謎の掟を自分に課していました。

おかげで何度も死にかけました。

しかし、大型バイクでは事故はありませんでした。

90ccのバイクも街乗り用に乗っていましたが、そのバイクですり抜けをして右折禁止の場所で右折してきた車にはねられる。

人生3回目の救急車…(事故多くね?)

この時は打撲程度で済みました。

骨には異常なし。

よかったよかった。

何もない時はギャンブルばかりしていました。

そして夜になったらクラブに行くか飲みに行く。

そのせいもあってか一番お金がなかったのもこの時期でした。

しかし、この時期が人生で一番自由に生活していたかもしれません。

スピリタスというアルコール96%のお酒を飲み記憶を飛ばして起きたら某神宮の境内で寝ていた事は本当に驚きました。

スピリッツ、ウイスキーにハマってたのもこの時期でした。スコッチは毎日飲んでた…(今は飲めないよ)

そして、テキーラを3人で2本飲んで胃腸炎になりました。

そこから休業し飲む量は抑えるようになっていきました。

するとそのタイミングで親父のリウマチが悪化し手術する事に。

家業を継ぐなら帰ってこいと言われました。

そして僕は農家として実家に戻りました。

しかし、その1年は本当に苦痛。

辞めたくなかったバンド、バーテンを辞めて何もない田舎に戻って親父に仕事を指示されるのが苦痛で仕方がなかった。

家族だから上司と思えずなんでも言い返してしまう・・・

煌びやかな世界から大自然で泥だらけの仕事…

というギャップに耐えられませんでした。

そこでまた僕は1年で都会に再度逃げ出しました。

実家に戻る前から知り合っていた都会の子に恋してしまったのも大きかった。(結局別れる事に…笑)

しかし、今度こそ好きなことをやるぞ!

と意気込み、DJをやったり再度バンド活動してライブをやったりと色々なことにチャレンジ。

そこから昼の仕事と夜の仕事で掛け持ちをして飲食店経営という目標を掲げて活動。

しかし、掛け持ちは予想以上にハードで休み0…。

昼の仕事のみになってしまいました。

そしてその職場で現在の嫁様と出会い、同棲を始めました。

同棲を始める時に嫁様の実家に挨拶に行きました。

お義父さんに同棲するならその先(結婚)も考えているんだろうな?

と強く言われ、自信を持って強い意志で返答しました。

この頃から農業を継ぐか本気で悩み始めました。

そして親父が60歳になる頃に「もし跡を継ぐ気があるなら5年で経営移譲を考えている。5年で色々教えたいからやる気があるなら戻ってきてくれ」

そう言われ僕は嫁様にプロポーズし本気で農業を継ぐ事を決意しました。

飲食店の夢は高校の時からの大親友に託し、僕は野菜を作って友人に出荷するという次の夢にシフトしていきました。

形はどうであれ、あの時農業を継ぐという決断ができたのは今考えると本当によかった。

そうじゃないと多分ろくな死に方していなかったと思う…笑

そして、子供ができてから父親になったと強く自覚しました。

そして3人の子宝に恵まれ必死に根性で寝る間を惜しんで農作業を頑張っていました。

しかし、頑張りすぎる、個人事業主特有のいつまでもどこまでも働ける…歯止めの効かない事業体系。

それがいけなかった。

疲労から運転に支障が出て大型トラックVS軽トラック⇦こっちが僕

人生4回目の救急車

人生首の骨の圧迫骨折にあばらを6本折る大事故。

肺に血が溜まる。集中治療室。

起きたら病院の天井でした。

事故当日の夜は暴れて酷かったみたいです。ちょうど農繁期のタイミングでした。

管をぶち抜いて仕事しなかったらいけないと大騒ぎ。

僕は暴れた記憶や事故して3日間は何も覚えていません。そのくらい体への衝撃がすごかったんですね。

仕事ができないストレスで精神的にやられたのもこの時期でした。

周囲の励ましがあって約1ヶ月入院生活、リハビリ2ヶ月かけてここまで戻ってこれました。

しかし、結果的になんともなかったからよかったですが当時は家族が悲しみ非常に心配をかけたのはいうまでもありません。

二度とこんな経験はしたくないと思いました。

そこから現在に至ります。

長くなりましたがかつての遅刻王、カンニング王、継続できない王の僕でも農繁期はしっかり4時には目覚めて作業をしながらこうしてブログ活動も行えています。

30代で救急車に4回乗っている人はなかなかいないでしょう。カンニングのツケかな?

しかし、歳を重ねるときっとあちこちガタガタになるのは目に見えています。

その為に早期リタイヤを目指して現在奮闘中です。

早期リタイヤして世界中を駆け回ってみたい。そんな夢を抱いています。

息子よ、農業するなら早く帰ってきてね。

最近は2020年にトラクター転倒事故で800万円の損失を出したくらいで、体は大丈夫です。(事故よ…いい加減懲りてくれ)

2021年は何事もなく終われそうです!(それが普通)

まとめ

まとめ

過去が複雑(色々広く浅くのスタイル)なのでかなり長文になってしまいました。

中途半端、ズルを繰り返し続けたこんな僕のような悪人凡人でも直向きに努力すればしっかり利益を出すことができるのが農業の強みです

やり方は無限に広がっています。

インターネットの普及という点からもうまく活かせばもっと農業の世界もきっともっと広がる。

何より1次産業という点でも国の制度の手厚さがすごいです。

もしこれから農業を始めようと思っている方がいらっしゃいましたら活かしていきましょう。

もちろん親父、祖父が築き上げた基盤があってこそ、今があるので感謝の気持ちは忘れず楽しく農業を取り組んでいます。

繰り返しになりますが、僕なりの分析や経験を共有することで農業のことで悩んでいるどなたかの参考になれば幸いです

これからも僕の経験が生きる記事を更新していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

長文、最後まで読んで頂きありがとうございました。

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気ままに呟いています。Twitterでの僕は意識は高かったり低かったり色々人間らしく行こうと思っています。

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農民モサチキブログ | 北海道専業農家歴12年のモサチキが農業の事や、色々な事を発信するブログ

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